サクラ・・・サクラ・・・サクラ・・・サクラ・・・



「はっ・・・」



カカシ先生の手を掴んだまま、少しウトウトしていたようだった。



懐かしい先生の声が、頭の中でリフレインしている。

何か夢を見ていたのかもしれない。

頭の中は朦朧としていて何一つ思い出せないけれど、酷く懐かしい感情だけは心の中に刻まれていた。

崩れるようにベッドサイドにもたれながら、ぼんやりとその感情を反芻する。



サクラ・・・サクラ・・・サクラ・・・サクラ・・・



あの日、先生は私に魔法をかけた。

思いもよらない方法で、私の世界を一新してしまった。

知らぬ間に、先生の周りだけがキラキラとダイヤモンドを散りばめたように輝いてた。

他は何も目に入らなくなってしまった。

それからというもの、カカシ先生が「サクラ・・・」と口にする度に、私の心は乱れに乱れる。

自分でも可笑しいほど、ざわつき、ときめき、切なくなって、何が何だか分からなくなる・・・。




「カカシ先生・・・」




不相応な高望みはしない・・・。

だからせめて夢ではなく、本当に聞かせてほしい。

その声で。

本物のカカシ先生の声で、また、「サクラ・・・」と、私の名前を呼んでほしい・・・。








「・・・・・・ぅ・・・・・・」


「・・・え・・・?」





なに・・・?

今、何か聞こえたような・・・。




重たい頭を物憂げに持ち上げ、ぼうっとした目で辺りを見回した。




「・・・・・・」




空耳・・・だろうか。

疲れが溜まって、白昼夢でも見ているのかもしれない。

少し、休んだ方がいいのかもしれないな・・・。




ほぅ・・・と重い溜息をつき、目蓋を閉じる。

だるい・・・。全身が鉛のように重たい。

どうしよう・・・。もう、チャクラを練り上げる力が残ってない・・・。








「・・・ぁ・・・・・・ぅぁ・・・・」


「・・・・・・」





え・・・、うそ・・・。



掠れた声・・・。

荒い吐息と聞き間違えてしまいそうな、本当に小さな囁き声。

僅かな衣擦れにも消されてしまう、微かな微かな声だったけど・・・。

もしかして、まさか・・・。







「・・・先生・・・?」


「・・・・・・く・・・・・・ら・・・・・・」


「・・・あぁ・・・!」




唇が、ほんの少しだけ動いていた。

目を凝らしてじっと見ていなければ気付かない程度の、ごくごく僅かな動き。

目の錯覚だったらどうしよう・・・と、慌てて両目を何度も擦った。



「カカシ先生!」



息が掛かりそうなほど顔を近付け、食い入るように先生の顔を見守った。

ああ・・・間違いない・・・。

ほんの微かにだけど、ちゃんと唇が動いている。

あの日からずっと固く閉じられたままの二つの瞳。

でも、目蓋が微かに開かれて、瞳がゆっくりと辺りを彷徨っている・・・。




「先生・・・、気が・・・付いた・・・の・・・?」

「・・・・・・」

「ねえ・・・、私の顔ちゃんと見える?・・・私の声ちゃんと聞こえる?」

「・・・・・・」




焦点の定まらない瞳は、しばらくぼんやりと天井を見上げていた。

時間の経過を思い出そうとしているのか、窓から差し込む光に少し眩しそうに目を眇めて、白い壁やカーテンにゆっくりと視線を泳がせている。

記憶はしっかりとしているのだろうか。術の後遺症はないのだろうか。

声に出して確かめたい事は山ほどあった。でも今は固唾を呑んで見守るべきなんだろう。



「・・・・・・」



どうか・・・どうか私の事を憶えていますように。

私との思い出が消えてなくなっていませんように・・・。



祈るような思いで白い横顔をじっと見詰めた。

血が滲むほどギュッと唇を噛み締め、爪が皮膚に食い込むほど固く両手を握り締めた。

ほんの数秒の時間が、途轍もなく長い・・・。

なかなか目を合わせてくれないカカシ先生に、不安と苛立ちがグルグルと渦巻く。

たまらず、つい大声を上げてしまった。



「カカシ先生・・・!」



お願いだから、こっちを向いて・・・。

私に気付いて笑い掛けて――



きつく握り締めたシーツが、破れそうなほどにピンと張り詰めている。

やがて・・・、何度か深い瞬きを繰り返した後、カカシ先生はゆっくりと私の方へ視線を差し向けた。




「・・・や・・・あ・・・・・・」




照れ臭そうに目を細め、口の端を少しだけ持ち上げて、カカシ先生が笑った。

それは、普段の先生からは想像もつかない、随分と弱々しい笑顔だったけれど、今の私には何物にも代えがたい眩しい笑顔に違いなかった。




「せ・・・んせ・・・」

「どうした・・・随分と・・・痩せ・・・こけて・・・ちゃんと、メシ・・・食ってんの・・・か・・・?」




憶えていてくれた・・・。

ちゃんと私の事、憶えていてくれた。




「良かった・・・」




知らぬ間に涙が溢れ出し、ボタボタと膝の上に零れ落ちた。

伝えたい言葉がたくさんある筈なのに、何一つ頭の中に浮かび上がってこない。

「良かった・・・」 と一言告げるのが精一杯だった。

後はもう堪えきれずに顔を覆い、感極まって激しくしゃくり上げるばかりだった。




「・・・うっ・・・・・・せんせっ・・・・・・ほんとに・・・良か・・・った・・・」

「・・・こら・・・・・・泣・・・くな・・・」




震える指が、ゆっくりと私の顔に伸ばされる。

ぎこちなく涙を拭い、頬や鼻の輪郭を確かめるようにゆっくりとなぞり、最後に頭を軽く撫でていった。

あぁ・・・、なんて懐かしい感触・・・。

ずっとずっと夢見ていた。また昔みたいに私の頭をぽんと撫でて、優しく髪を梳ってくれる事を。

「子供扱いしないで!」と何度も文句を言ったけれど、本当は嬉しくて嬉しくてたまらなかったんだ。

カカシ先生が私に触れてくれる事が・・・。




「う・・・うぅっ・・・うっ・・・」




泣き止まなくては・・・。

こんな泣きべそ顔ではなく、最高の笑顔で先生の無事をお祝いしてあげなくては・・・。

でも、そう思えば思うほど、余計涙が止まらなくなってしまった。

一旦、離れかけた指が、また優しく涙を拭ってくれる。

その感触に次から次へと涙が誘われ、一向に止まらない。

見っとも無いと分かっていても、子供みたいにくしゃくしゃになりながら、いつまでも大泣きし続けて先生を困らせた。




「うっ・・・うぇっ・・・えぇっ・・・」

「・・・サクラ・・・」




呼ばれるままに視線を上げると、長い指の先には静かに笑うカカシ先生の瞳があった。

穏やかな表情とは裏腹に、熱く熱の籠もった視線が真っ直ぐに私を捉えている。

それは単なる親しみとは別の・・・、そう、別種の愛情を感じさせるような、優しくて、どこか切なげな視線だった。




ジリジリ・・・と、胸の奥が熱くなる。


あ・・・、また先生に魔法をかけられた・・・。




こんな風に見られた事など、今まで一度もなかった。

どんなにニコニコと笑っていても、どこか一線を画するようなカカシ先生の雰囲気に、いつも私の心は置いてけぼりを喰らっていた。

『先生と生徒』という立場が、いつまでも付き纏って離れない。

どんなに足掻いてみたところで、それ以上の関係など望みようもなかった。



それが、今はこんなにも近い・・・。

今まで手の届きようもなかった先生の本心に、今にも触れられそうな気がしてくる・・・。




「・・・せ・・・んせ・・・」

「・・・・・・」




互いに無言で見詰め合い、必死に心の内をぶつけ合った。

ありったけの想いを送り、送られ、互いの瞳の中に、その答えを見出そうと躍起になった。



「・・・・・・」

「・・・・・・」



ひたひたと、静やかな激情が胸に込み上げてくる。

それはまるで、何かに突き動かされ、世界を一新してしまうような、とんでもない衝動―――





肩に置かれた手にグッと力が込められ、軽く引き寄せられるままにカカシ先生の胸に覆い被った。

そっと背中に回された腕に、何かの答えを見出せたような気がして、思わずシャツを掴み取ると縋りつくように顔を埋めた。

トクン、トクン、トクン・・・

力強い鼓動が、はっきりと聞こえる。

腕も、胸も、こんなに温かい・・・。




「・・・せんせ・・・・カカシ・・・せんせぇ・・・」




いろいろな想いがごちゃ混ぜになり、言葉にならない。

言葉は全て涙に変わり、次から次へとカカシ先生の胸へ吸い込まれていった。

肩を震わせ泣きじゃくる私を、カカシ先生は決して厭わずに、気の済むまで好きにさせてくれた。

そして、しみじみと私に告げるのだった。